ぬくもりの記憶

ふみの縁側茶話会

気が付くと暖房器具にこたつやストーブを使わなくなっていました。

ある年の冬、こたつを出すのが億劫に感じ、出さずにいたらそのまま翌年以降も出さないのが当たり前となりました。

ストーブもタンクへの灯油補充や、灯油を買いに行くことそのものが面倒になり、結局使わなくなりました。

こたつやストーブを使わなくなったのは、いずれにしても私自身の横着な性分が起因していると思います。

しかしながら私が実家で過ごしていた子供の頃は、だいたい11月頃には居間の中央にこたつが出現し、それから少し後になって灯油ストーブが居間の隅の方に鎮座する…それが冬の居間の配置としての恒例になっていました。 

なお、私はこたつに入り、みかんを食べながらテレビを見るのも好きでしたが、それよりもストーブの傍で家族と話をしていた記憶の方が鮮明に残っています。

灯油ストーブの上にはいつも水の入ったヤカンが置かれていて、それは湯となり、ヤカンの口からは湯気が出て、加湿の役割をしていました。父が晩酌に熱燗を飲むときには、このヤカンの中に徳利を沈めてお酒を温めたりしていました。また、みそ汁など汁物が入った鍋をストーブの上に置いて温めなおすなど、ストーブは暖房だけでなく加湿や加熱調理にも使えたのでとても重宝していました。

また、ヤカンや鍋を置いていてもストーブの上部には、まだ空いているスペースはありましたから、ストーブの上にアルミホイルを敷いては色々な物を焼いて食べたりもしました。

餅や干物はもちろんのこと、給食で残してきたアルミホイルで包装されているチーズ、焼きみかんなど私一人で、あるいは家族と一緒に食べたのも懐かしい思い出です。

ストーブの傍に寄り合い、暖かいストーブの上で加熱された食べ物の香りが漂う中、今日の天気や他愛もない話をしながら過ごした時間は、冷たい手先だけでなく人の心も温めてくれたような気がします。 

その役割は少し前なら囲炉裏だったものが、ストーブへと変わっていったようにも感じられます。

もっと大昔には、火を使えるようになった人間が、夜の暗闇に潜む獣から身を守るためだけにとどまらず、周りを明るく照らす火の美しさを眺めながら、火によって新たに得た「加熱」で調理した食べ物をそれぞれに口にしながら色々と語らい、だんらんを楽しんでいたのではないでしょうか。

出来上がった料理を台所から運んでくるのではなく、ひとところに集う複数人が、囲炉裏にせよストーブにせよ赤々と燃える火の前で暖を取りつつ、語らい、食材が加熱によって漂ってくる香りを嗅ぎ、目の前で完成したアツアツの料理を分け合いそして一緒に食べることで得られる太古からのぬくもり。

…そのぬくもりはDNAとして人の心の奥に必ず存在している様に思えるのです。

今、時を経て、核家族が増え、家族員や団らんが減少傾向にあり、暖房も灯油ストーブ以外の、火を使わない器具が増えている中、そういう状況だからか私たちはおりにふれ思い出すのでしょうか。

キャンプで火を囲んでいる時、たき火で芋が焼きあがるのを待っている時、、、日常ではない火との関わりの機会、複数人で火の周りに集う時など、燃えさかる炎の妖しい美しさに見とれているだけでなく、そこには無意識に懐かしい気分も得ているように思うのです。 

それは、火と人とのぬくもりを大切にしてきた太古の記憶なのかも知れません。 

コメント

タイトルとURLをコピーしました