ひとり紅葉狩りに思う~命のバトンリレー~

あぜのはら散歩

11月も半ばを過ぎる頃、もみじを間近に見る機会がありました。

特にもみじに関心はなかったのですが、ちょっとした待ち時間に外を眺めていると一本だけ大きなもみじが遠目にも赤々と目立っていて、暇つぶしにそのもみじの傍まで歩いて行ってみることにしたのです。

朝は晴天だったものの若干あやしげな雲が帯び始めた昼下がり。こんな天気のせいだからか、野山と公園が一緒になっているようなその場所には私の他には誰もいないようでした。

大きなもみじの木の傍にたどり着き、木の下から空を見上げると、華やで美しい大きな傘を独り占めで使っているようで、なんだか贅沢な気分になりました。また、遠くから見ると赤一色に見えたもみじは、陽の当たりや葉の重なり具合で赤の種類が更に増え、近くで見ればこんなにも美しいものかと、しばし感嘆。

しかしながら、視界を少し変えていくともみじの色が赤のグラデーションだけではないことにすぐに気が付きます。

一枚のもみじの葉の色でさえ一色とは限りませんが、あんなに赤々として見えていたもみじの木は赤以外にも沢山の色の葉を付けていたのでした。

赤、紅、茶、橙、黄、黄緑、緑……その色数の多さは、パレットに絵の具を出しているようです。

気温の低下に伴い、もみじは段々と赤みを増しますが、赤い葉が色の深みを増すだけでなく、その深い赤い色の葉と同時に初夏を思わせるような緑の葉も混在していることが私には驚きでした。そして、なんとこのもみじの木は羽のついた種まで抱えていたのです。

その色の多彩さは私にはまるで大家族の様にも映りました。

枝から落ちてしまいそうな枯れた葉や、完熟の葉、まだまだ若い葉に、幼い葉、そして赤ちゃんともいえる種。家族内の人数、そして人口も減り続けている日本の現状とは逆に、もみじは一本の木の中で、お爺ちゃん・お婆ちゃんから沢山の子供たち、孫たち、そして生まれたての赤ちゃんが一緒に存在している様に見えたのです。それぞれが次の世代へ大切なものを手渡し、手渡した後も渡した相手の事をしばらくは見ています。手渡すという使命が果たされたからといって渡した瞬間に葉が落ちていくわけではありません。それは私には次の世代とゆっくりと手をつなぐような、大切な命のバトンリレーのように思えたのです。

でも、それは果たして「ゆっくり」なのでしょうか。

代々に渡って受け継がれるものは家々にあり、それは高価な家宝にとどまらず、お婆ちゃんからお嫁さん、そして娘さんに委ねられる着物や指輪などはよくある話かとも思います。それらの物について取り扱いの説明のみならず、ちょっとしたエピソードや思い入れなど伝えていく中で、大切とする気持ちも育まれていくのではないでしょうか。「大事にするんだよ。」と一言だけ言われてパッと渡されたからといって粗末にすることはないにしても、心への染み入り方は明らかに異なると思います。

今は本当に便利な世の中になりました。時間短縮(時短と略されるそうですね☆)、効率化、合理性、……などなど、徹底的に無駄を省き、いかに物事をスピーディーに進められるのかが大事とされる傾向にあります。

その影響もあるのか、パソコンやスマートフォンで動画を見る時には視聴速度を速めて再生したり、自分が不必要とする場面は早送りにする人が増えているそうです。それらは時間の節約なのだそうです。

そのように、様々な場面で作業の簡略を図ったり、時間のロスを嫌ったり、少しでも早く…という世の中の流れにありながらも、医療は発達し続け、それに伴い人の寿命も延びています。あらゆることにそんなに急いでも、さて、残りの人生の時間、どうしましょう。

もみじの世代交代がゆっくりなのではなくて、私たちがせかせかしすぎているだけじゃないのかしら…。

そんな気がしました。ひとり紅葉狩りの日。    

 

 

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