子供の頃に見聞きしたテレビや絵本の内容は勧善懲悪が基本になっていることが多かったような気がします。
弱者を助けるヒーローが登場したり、まじめにコツコツ頑張っていたら良いことが起こったり、ラストシーンはいつもスッキリ晴れ晴れのハッピーエンドということに不満はないものの、子供ながらにどこかマンネリを覚えていたのでしょうか…、人から聞く話、例えばその人の体験談だとか、地方に伝わる昔話を聞かせてもらえる機会には「怖い話」、「不思議な話」をせがんでいました。
もうそれらの話の殆どは忘れてしまいましたが、先日ある景色を見た時にふっと思い出した話があります。
それは私が幼稚園児ぐらいだった時に母から聞いた、母の体験談でした。
その体験談というのはとりたててオチもなく、今でも「で?それでどうなったの?」と、その話の続きが知りたくなるようなものだったりします。
では、具体的にどんな内容だったのか。
一言でいえば「狐に化かされた」という話。
狐に化かされる話は昔話にもよく出てきますが、実際に起こりうることかどうかは私には判りません。
しかしながら、母が話してくれた内容を科学的に説明せよと言われても私にはできそうにありません。
では、母の身に一体どんな事が起こったのか…。
時は昭和。戦後間もなく、母がまだ十代で山奥にある実家に住んでいた頃。ある時、母はお使いを頼まれ、大きな鮭を一匹抱えて夕暮れの山道を歩いていました。
秋は暮れはじめると暗くなるのもあっという間。山道の脇には笹やススキが生い茂っていて、少しの風が吹くだけでもサワサワと大きな音を立てます。母は歩みを早め、家路を急ぎました。
そして、生ぬるい風がふっと一瞬吹いたかと思うと、母の後ろ髪はふんわりと浮きました。
普段は勝気な母もこの時ばかりはとても気味が悪かったそうです。
帰宅後、包みの中の鮭は、明らかに獣にかじられた痕が残っていたということです。
母の話はこれでおしまいです。
そもそも母がお使いを頼まれる前から、鮭に傷があったのかどうかさえ今となっては分かりません。しかしながら人里離れた山奥では海の魚はとても貴重で、母にとっては責任重大のお使いですから、その道中は相当に鮭に気を付けていたと思います。
それなのに傷がついた魚を持ち帰ることとなってしまった母に対して、母の家族の反応はなにかしらあったと思うのですが、不思議なことにそれらについて母から語られることはありませんでした。例えば、何かにかじられた様な跡が残る鮭を見た母の両親(私からは祖父母)や兄弟たちがどんな反応をしたのか、母を叱ったのか或いは心配したのか等という事は母の話からは一度もなかったのです。暗い山道・生ぬるい風・浮き上がった後ろ髪、これらの恐怖に加え、まるで獣に噛まれたような鮭の傷などから、やはり母の心に強烈に残っているのは「狐に化かされた」という思いだったのでしょう。
先日、墓参りの為に母の実家があったとおぼしき場所に訪れていました。自分の背丈を越えるほどの草木が山道のすぐそばまで迫り、風が吹くたびに大きく揺れ、殊にススキの穂は頭を次々にもたれ掛けてくるようにさえ感じました。また、膝丈ほどに広がっている藪笹は何かが潜んでいても全く分からないほど密に群生しており、茂みの下には道が続いているかどうかさえも判別がつきません。このような景色を目の当たりにし、ふいに、母が私に話してくれた「狐に化かされた」という話を思い出したわけです。
日中でも草木の生い茂る山道は薄暗く感じられたので、夕暮れには周りのものが更に見えづらくなるだろうことは想像できます。
木立に存在しない人影が見えたり、背丈の高い草が幽霊に見えてしまったこともあったでしょう。
今の時代は深夜営業の店も多く、防犯の兼ね合いからも夜道は街灯に照らされ、夜でもそれなりに明るい所は多いでしょうから、木や草を人と見間違えることは昔ほどにはないと思われます。
また、至る所に防犯カメラが備え付けられているだけでなく、携帯電話にまでカメラ機能があるので、曖昧なものは撮影をした後で画像解析により、それが何であるのか調べることも簡単です。
ただ、日暮れや夜の闇は、人の目にはよく見えない世界を作り、時に錯覚をも生じさせていたのですが、それは単なるオカルトではなく生活の中での戒めにもなっていたことでしょう。例えば、夜道は暗く、転んだりすると危ないから、子供には夕暮れになると「早く帰らないとお化けが出てくるよ、ほらあそこにお化けがいるよ。」などと言うように。(いまどきの子供はお化けでは怖がらないのかも知れませんが…)
結局のところ、母が抱えていた鮭をかじった犯人、或いは、かじられたような痕跡の理由は、もしもあの山道に防犯カメラが設置されていれば、簡単に判明していたのかも知れません。または鮭の損傷部分もスマートフォンでの撮影が可能だったなら、解析や検索により原因も特定できたかも知れません。
しかしながら、真実を捉える為とはいえどもカメラや明かりが、常時において全てを照らし、全てを露わにしてしまうのは、いかがなものかと感じます。白黒つけなくても良い場合ならグレーのままでそっとしておいても良いのではとさえ思うのです。
なぜなら、人が人たるゆえんと言われる想像力というものは、陰のない明るいところで晒され続けているものに対しては、その力を発揮する必要性も乏しいでしょうし、大げさな言い回しになるかも知れませんが、目には見えない世界、すなわち「闇」が人間の想像力を大きく膨らませていたのではないでしょうか。
例えば、遠野物語(柳田邦夫)の河童も、ゲゲゲの鬼太郎(水木しげる)の小豆とぎも、色とりどりのイルミネーションでまばゆほどにライトアップされた街なかの川べりではなく、草木も茂った陰や闇の中だからこそ存在したのだと思われます。
光と闇が表裏一体ならば、光にさらされた表面の物ごとだけを真実と決めつけるのは、偏りがあるようにも思えますし、想像ですら妖怪が全く存在しない世界というのは、とても味気ないような気がするのは、私だけでしょうか。
ちなみに、母が狐に化かされたという場所には今も夜道を照らす灯りがありません。夕暮れ時にそこを通るのには注意が必要です。特に魚を持っている場合には…。
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