手のなかの幸せ

あぜのはら散歩

十代の頃に読んだ本(確か何かのマンガだったかも知れません)に、こんな内容の話が書かれてありました。

「赤ちゃんがオギャーと生まれた瞬間には、握ったこぶしの中に幸せが詰まっている。しかしながら赤ちゃんが手を緩めた時に手の中から幸せが離れて行ってしまう。赤ちゃんは、離れた幸せを再び掴むために自分の人生を生きていく。」

ニュアンスとしてはだいたいこんな感じです。何十年も経った今でもおぼろげながら覚えているのは、私自身、深く納得する部分があったのでしょう。

そのおぼろげな記憶が蘇ったのは、ある光景を見たからでした。

それは、秋晴れの心地よい昼下がり、金色の稲穂がこうべを垂れる中、草刈りで一掃された畔に一輪の彼岸花のツボミが伸びている様子でした。

ちなみに彼岸花はなかなか不思議な花です。「花見ず葉見ず」とも言われ、花が咲いている時期には葉がなく、葉が育っている時には花は咲きません。また、花には多くの昆虫が立ち寄るものの、果実や種を宿すこともなく根で増えていくタイプの彼岸花には、本来ならば美しい花の姿であることも花に蜜があることも不必要にさえ思えます。 

また、彼岸花は有毒であったり、土葬の墓地の傍に植えられた過去から忌み嫌う人もあります。

しかしながら昔人々の人々は農作物が不作で食べるものに困った時には彼岸花の根を砕き、何度も毒をすすいでデンプン質を取り出して食料にしていました。また、墓地に彼岸花を植えていた経緯もモグラなどの獣から土葬のお墓が荒らされないように彼岸花が持つ毒を利用していたそうなのです。そういった彼岸花と人との関わりを知ったり、花の呼び名も100を数えるほどにあることなどを思うと、日本中の様々な場所で彼岸花が人々の生活に深く根付いていたことが伺えます。

ちなみに私は子供の頃、彼岸花を手折ったことを母に注意をされたことがあります。

どんな注意をされたのかという内容については今はもう思い出せません。でも、注意されて以降は、彼岸花を折ることは一切ありませんでした。

それは、彼岸花が、春の日に子供が野原で摘んで遊ぶようなタンポポみたいな明るい可愛い花ではなく、どこか妖艶でミステリアスな雰囲気を醸していて、子供心にも無邪気にちぎって遊んだらバチでも当たるようなそんな気分にさせられたのかも知れません。

稲刈りもそろそろだという頃になれば真紅の彼岸花が咲き誇ります。地面が見えないくらい群生している「彼岸花の名所」とされているところも数多くあります。

そのように、ひとところに沢山の花がまるで湧き出るかのように咲いている印象が強い彼岸花ですが、先端にツボミをこしらえた茎だけを地中より一本、草刈りで見通しが良くなっている畔から空に向かって伸びているのを見掛けた時、誰の助けを借りるでもなく一本の花が咲くためだけに伸びた茎。その先に宿るツボミは私にはまるで生まれたての赤ちゃんのこぶしのように映り、そして何十年前に読んだ本の中の一節がおぼろげながらも蘇ったのです。

ゆっくりとこぶしを開くように彼岸花は花を咲かせます。

開いた花からは幸せが放たれたのかも知れません。

ただし、自分の子(種子)を残す幸せも彼岸花にはもとより皆無で、まるで自分の幸せなど無頓着とばかりに、淡々とその麗しい花を咲かせ、一本に一つだけの花が終わればもうそれで枯れていくだけです。

人間が飢餓の危機には食料となり命を分け与えてくれ、墓地では故人を護る番人を担ってくれていた彼岸花が、開花と共にこぼした幸せがあるのなら、それは彼岸花にとっての幸せではなく、彼岸花以外の誰か……人の為の幸せだったのかも知れません。

私たちの祖先には彼岸花のおかげで空腹をしのぎ、命拾いした人もきっとあるでしょう。

時代の変化に伴い、彼岸花と人との関係も異なってきましたが、そんなことは素知らぬ顔で、彼岸花は涼やかな秋風に心地よさげに時おり揺られているようでした。    

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