山の神様に届いた願い 

ふみの縁側茶話会

今日は珍しく一度も赤信号で止まることなくスムースに目的地へ辿り着いたなぁとか、遠出をした休日、出先で会社の同僚に偶然会ったなど、その様な体験は体験した当人によって印象や心持ちも様々だと思います。

そういう偶然の出来事を、まぁたまにはそんなこともあるんじゃない?程度に思ったり、とてもラッキーとして捉えたり、或いは不思議な事、または奇跡の様に感じることもあるでしょう。

私にも先日そのようなことがありました。

ちなみに私は、野外の鳥を観察したり鳥をペットにするなど、鳥に特別な興味、関心があるわけでもないのですが、偶然、目の前にいる鳥に注視することが一日に3回も続けざまにあった日、それは「不思議だねぇ」という思いにとどまらず、もう何十年も前に私が体験した、鳥に関わる不思議な記憶に繋がっていく鍵となりました。

その「不思議な記憶」の話の前に、たて続けに3回あった鳥に見入ってしまったというお話に少々お付き合いを頂けますでしょうか。

それは、年明けの陽も暖かなお昼時のことでした。一羽の鳩がタップを踏むように落ち葉の上を楽し気に歩いていました。多分、落ち葉の上を踊るように歩いているのは隠れている虫を驚かせて、虫が這い出てきたところを捕食する為なのでしょうが、私にとって鳩というのは複数でいつも一緒の印象がありましたし、ユーモラスな動きをしながら食事をする鳩を見るのは初めての事でした。 

赤信号で車を停車させている間、私は車のフロントガラス越しにそのダンシングランチ鳩(勝手に私が命名)をずっと眺めていました。

それからしばらくして、仕事で訪問した先の玄関の真ん前にモノトーンの小柄な鳥がいて、こちらをじっと見ているのに気づきました。鳥の名前はよく知らないのですがセキレイの仲間でしょうか。私の中では飛んでいる姿よりもアスファルトの上をピョンピョン跳ねているイメージが強い鳥です。今まで遠目でしか見た事のない鳥です。そんな鳥が私と50㎝も離れていない近距離で首を傾げるような愛らしい仕草で私を見上げているのです。鳥に関心のない私でも真正面から初めて見た鳥(セキレイ?)の可愛さには驚きでした。

そしてその後、大きな池の傍を通りかかった時のことです。いつもなら風に穏やかに波打っている水面がこの日は様子が一変していました。雨が少ないからか、或いは池の堰が開かれて水量が減っているのか、大きな池は大きな水たまり程度の水しかなく、魚を狙って大小さまざまな沢山の種類の鳥たちが集まっていました。それはとても賑やかな光景でした。しかしながら、ここでも鳥の名前に疎い私はどんな鳥がいるのかサッパリ分かりません。あの大きい鳥はサギの仲間かなぁ、、ぐらいです。

鳥に遭遇した3度とも、私は仕事中だったのでスマートフォンのカメラで撮影することはできませんでした。

ですので、一番最初に見た鳩も〇〇ハトといった正式名が分かりませんし、セキレイの仲間に思えた鳥も実はセキレイかどうかすら定かではありません。池の中にいた沢山の鳥たちに至っては数も種類も多すぎて私には同種か否かさえ違いが分からない気がします。

(写真にできなくて残念だったなぁ。写真に収めていれば画像検索から、どんな鳥だったのか調べることができたのに…)正直、そう思いました。

でも、そう思う一方で、何が何でも鳥の名前を調べたいのかというと、そこまでの気持ちでもありません。前述の通り私は鳥について興味も執着もないので、今日は(鳥の)珍しい場面に出くわしたなぁ、程度のものです。   

ただ、この日に起こったことを人に分かりやすく伝えるには圧倒的に情報が乏しいことだな、と思ったのも事実です。鳥の名前は一切分からないし、証拠になるような動画も写真もない。鳥に興味のない私でも「お!?」とココロ惹かれるシーンが短時間に三回あったものの、記録として何もないとなれば全てにおいて説得力が弱く、信憑性さえ危うい話です。

昨今、自分に起こったことを傍にいる親しい人と話している時、より分かりやすい解説代わりに、「ねぇ、ねぇ、ちょっとこれを見てみて。」とスマホで写した写真や動画を会話の最中に見せたり、 或いはメール、もしくはSNSで発信する時にも、写真や動画など文字以外の更なる情報があれば当たり前の様に添付していることに気が付きました。

確かに画像や映像があれば他人が見ても分かりやすいですし、画像から検索をかければ自分には全く分からなかった名称についても候補はぐんと絞れますし、そのまま名前の特定に繋がるかも知れません。         

ですが研究や学習、資料収集や情報発信など、何らかの目的として必要でないのなら、写真に撮れてなくても事足りることは多々ありますし、現に、私が何十年も昔に出会った美しい鳥については写真撮影をしていなくて良かったのかも、とさえ思えることでした。

今から何十年も昔、私が小学校低学年だった頃のことです。

学校からの帰宅が早い日には、母は私を連れて近所の山へ行くのが常となっていました。散歩のようなものでしたが春は山菜、秋は木の実など山からの四季の恵みも頂きました。

山道の入口には、お地蔵様だか道祖神だかがあって、山の行き帰りには母は必ずその像の前で跪(ひざまずづ)き、手を合わせていました。私も同じようにしていました。

※今はもうその山へは入れないように柵が巡らせてありますので、結局私はその像が何であったか分からないままとなってしまいましたが。

ある時、季節は穏やかな秋の頃の事でした。 

護岸がセメントで固められた、すり鉢状の大きな池が山道の中盤ほどに現れるのですが、山道から池を見ると、風に揺られるススキの向こうの護岸に大きな鳥がいるように見えたのです。

池の中の魚などを狙ったり食事をしている様子でもなく、ただじっとしていました。

じっとしているものは鳥なのか鳥ではないのか……?

大きな鳥のようなものの存在を母に知らせることもせず、私は生き物の正体を知りたくて、そっと池に近づいていきました。

秋風が木々を揺らせて音を立てるだけでなく、枯草を踏む私の足音やススキをよける際に草が重なる音がする度に、(どうか、音に驚いて飛び立ちませんように。池に潜り込みませんように。)祈りに近い気持ちを抱いていたのを今でも覚えています。

そして、やっと立ち枯れた草の茂みから抜け、視界も広くなり、レゴブロックの様な凹凸のある池の護岸を間近に見ることができました。

そこに微動だにせずに佇んでいるのは大変美しい鳥でした。

キリッとした瞳、複雑な模様のつややかな羽根、今は閉じているけれど、もし広げたならどんなに迫力があるのだろうとドキドキしてしまうような立派な翼の持ち主は、何の目的でこんな池の傍にいるのか私には全然想像もできませんでした。今まで池に水鳥さえ見た覚えもありませんが、そもそもこの鳥は水鳥ではありません。   

では一体何の鳥なのかという話ですが、私にはタカなのかワシなのかトンビなのか全く分かりません。特徴的な嘴(くちばし)から思うに猛禽類であったことは間違いないと思います。

その大きな鳥は私が池に(鳥に)近づいていることを察知していたでしょうが、それでも私のことなど眼中にないようにじっと一点を見つめていました。

本当に静かな時間が流れていました。

池の水面は風に撫でられる度にゆるい波紋を作っていました。遠くで鳴いている甲高い鳥の声がかすかに聞こえてきます。

私は大きな生き物の正体が鳥、しかも猛禽類であることが分かって納得したものの、まだ鳥の方へ近づいていました。

母に見つかれば池の際にいる私にきっと大声をあげるでしょう。「さっさと上にあがらないと池に落ちたら危ない!」とかなんとか。

そんな大声を出されれば鳥は飛び立ってしまうに違いありません。私は母に見つからないよう、そして鳥に逃げられないよう、もう少し傍でこの鳥を見たいとばかり、近寄り続けました。(どうか逃げないで)と願いながら…。

本当に鳥と数センチほどの距離にまで近付くことができたのですが、それでも驚くべきことに鳥は私を見ようともせず、まるで石のように動かないままでした。

あろうことか私は鳥にそっと手を伸ばしました。そのつややかな羽根に触れてみたいと思ったのです。さすがに手を伸ばした瞬間に羽ばたかれると私には覚悟が出来ていました。野生の猛禽類にここまで近づけた事すら私には奇跡。それなのに更にその猛禽類に触るなど、鳥の立場からすれば自身の危険以外のなにものでもないでしょう。逃げて当然です。

それなのに、その大きな鳥は私の願いを聞き入れてくれたかのように相変わらずじっとしたまま、自分の大切な羽根を私に触れさせてくれたのでした。

手触りは、つややかでふんわり。そして様々な色の混じる綺麗な羽根は本当に美しかったことを今でもハッキリと覚えています。

私がどんなに近づいても、体に触れても、大きな鳥は私の全てを許し受け入れたかの様に微動だにしなかったのですが、、秋の深まりを見せる山を背景に池の傍に居続ける鳥は自然の中にある、厳しいながらも凛とした美しさに溢れていました。 

私は触れさせてくれた感謝を鳥に思いながら、もとの山道へと静かに踵を返しました。

このことがあってから、山道を歩いている時には今まで以上に池の方を気にするようになりました。また、あの大きな鳥に出会えないかな、と思って。

しかしながら、小学校低学年で体験した野生の猛禽類に触れるどころか、肉眼で猛禽類を見る機会さえ10年経っても訪れませんでした。       

勿論、この鳥の写真はありませんし、私の記憶を辿っても何の鳥なのか特定にまでは至っておりません。

しかしながら、もし仮に、写真や映像が手元にあり、そこから鳥の名前を知ることができたとして。とても珍しい鳥ということが判明して、思い出であったとしても珍しい鳥との出会いに喜びが加算されたり、或いは感染症のリスクがあることを知ってショックを受けたり……、そのように、曖昧なものをシロかクロかにジャッジしていくことは、真実や詳細を得るために大変有効ですし、インターネットの普及から「調べる」ことも「情報を得る」ことも昔に比べるとはるかに簡単で、大変便利な世の中になりました。

ですが、誰かに伝える機会も必要もなく、ただ自分の中にあるだけの思い出の小箱に、今さら鳥の名前や、その鳥の希少さ等の情報の上書きは必要なのかなぁ、と思う部分はなきにしもあらずです。

山の行き帰りには必ず山の神様(山の入口にあるお地蔵様のような像を私は最初、山の神様だと思っていました)に手を合わせていた母。その母にならって手を合わせていた幼い私。私が美しく大きな鳥を見た際には祈るような思いで触れたいと願い、偶然、その願いはきいてもらえたのかも、と今ではそう思っています。

ただ、どんな神様が願いを叶えて下さったのかは知る由もないですし、あの大きな鳥そのものが山の主だったのか否か、私には確かめるすべもありませんが…。

いずれにせよ、写真に収め、全てを調べあげていなかったからこそ、今なお私の心の中でほんのり色のまま褪せることなく生きているのかなと思います。  

         

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